2011年02月27日

日本的霊性 鈴木大拙

著者の鈴木大拙氏(1870-1966)は、巨人と呼ぶにふさわしい仏教学者・思想家。100冊ほどの著作のうち23冊が英語で執筆され、禅と仏教文化を広く世界に紹介したことでも有名。戦後は米国に住んで各地の大学で仏教思想に関する講義を行なっています。本書が書かれたのは昭和19(1944)年、ということは戦時中です。

本書では、日本的霊性の起こりを、歴史の大局に立って俯瞰します。タイトルに惹かれて書店でパラパラと読みはじめたところ、非常に魅力的な語り口に惹きつけられ、文庫本の気軽さもあって購入したのですが内容は重量級で安易にまとめられるものでなかった。それでも以下メモ。

・・・

どの民族も、特有の霊性(精神の奥にあり、心と体を統一するもの)を有するが、文化が一定のレベルに洗練されねば形を整えない。また、民族的に霊性を顕すようになっても、すべての人に霊性が見られるとは限らない。

日本の仏教はインドで生まれシナで形を変えた外来宗教だと考えるのは間違いで、まさに目覚めつつあった日本的霊性が仏教に形を借りて顕現したものと見てよく、インド・シナとは別の日本的なもの。(※民族主義的排外思想ではありません)

インド人は「識」や「空」といった抽象概念に卓越しており、シナ人は実用主義。

万葉(集)頃の日本人は素朴な自然児で、霊性云々の段階ではない。平安時代に仏教の渡来を得たが、この時期の天台宗や真言宗は最奥部がインド的であり哲学的・概念的でとても一般には普及せず一部支配層に知られただけ。神道と混ざって修験道となった部分も世俗を離れ山岳に入った。アジアの離れ島で桃源の眠りを貪っていた日本民族に、まだ目覚めは来ない。神道も、習俗の域を出ていない。

日本的霊性は鎌倉時代に整った。これは武士が生まれたという時代背景が大きい。
平安時代の優美で女性的な貴族文化は爛熟し退廃するばかりで霊性の深みに達していないが、鎌倉時代の武士階級は農民たちの自警団をルーツに生まれており、武力だけでなく大地に根をはった生命力を持っていた。霊性の目覚めは、地に足のつかない貴族文化ではなく、大地に根ざした人々から起こった。

この時期、初めて敵性外来との遭遇(蒙古襲来)があり、果たして自分たちの精神的支柱は外部に対抗しうるのかという危機感もあって日本的霊性が顕現した。
特に、浄土宗・禅は日本人の心性に適合した。農民に浄土宗が、武士には禅が受け入れられた。愛国的政治的思想を持った日蓮宗も確立した。神道はもともと宗教というよりは政治的な動きであったが、この時期に「神道五部書(伊勢神道の根本経典)」が整えられた。

神道には日本的なるものが多分に含まれているが、宗教としての体裁や構造に足りないものがある。霊的な覚醒を個人にもたらす部分がなく、儀式的・政治的要素が強い。
※特に大拙は、戦時に軍と結託した狂信的な一部の(「わが国は万国の祖、わが皇室は万国の王」などと唱える)神道思想に批判的である。※素朴な日本的心性の表現たる伊勢神道は別。

神仏習合は仏教者側からの辻褄合わせではない。仏教伝来のかなり初期から神道と仏教は自然に融合していた。

・・・

本書では、禅よりも浄土宗を詳しく論じています。
特に浄土宗の熱心な在家信者を指す「妙好人(みょうこうにん)」の生活について最後の一章をまるごと割いています。これを読むと、浄土教の眼目は、どこか遠いあの世の極楽浄土にいつか行くことではなく、大地に根ざした生命と日常のうちにあって「南無阿弥陀仏」と一心に唱え続けることにあるようです。衆生済度は、我々の日常そのもの。日々を遊ぶこと。分別・解釈を捨て、ありのままにあるものを受け取ることであると。

この「念仏三昧」に似ていると思ったのは、スリランカ仏教の長老、アルボムッレ・スマナサーラ師が「頭が突然鋭くなる瞑想法」などに紹介しているヴィパッサナー瞑想法です。この「瞑想」は、日々の行動のさなかに、いま目の前に起こっているものごとをいちいち全部確認していきます。「今歩きます。右足を上げます・下ろします。左足を上げます・下ろします。ドアを開けます。ドアを通ります・・」というように。すると何が起こるか。

人間の意識には、生い立ちや過去の経験に由来する各人各様の解釈・フィルター・色メガネがまといついており、今この瞬間に目の前にあるものごとを、ありのままに観ることが難しい。「無心」「無我」に、なかなかなれないのです。解釈を交えて事実をゆがめたり、無用なことを考えたり、まだ起こってもいないことを心配したりする・・そういった煩悩(?)や邪念(?)は、ラジオのノイズのように絶えず意識内を飛び交っています。

「念仏三昧」や「ヴィパッサナー瞑想法」は、こういった余計な「意識のノイズ」が発生する隙をふさいでしまい、ただ目の前に起こっている出来事とありのままに対峙するクリアーな意識を獲得する方法のようです。ノイズが消えた静寂で安定した意識を「涅槃」と呼ぶ・・これは死後の世界の話ではありません。この意識は静謐に澄んでいますから、ものごとが良く見え、聞こえるようになります。

読むべし!






posted by 武道JAPAN at 09:22 | Comment(2) | TrackBack(0) | 読書記録(社会歴史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いつもありがたく拝見させていただいております。少し細かいですが、私は下記のように
解釈しております。
瞑想には、止(サマタ瞑想)と観(ヴィパッサナー瞑想)があり、心をひとつのものに集中させ統一させるのがサマタ瞑想です。たとえば呼吸や数を数えることや曼陀羅に集中したり、念仏に集中したりするのはそれに相当します。これに対してヴィパッサナー瞑想は、今現在の自分の心に気づくというサティーの訓練が中心になります。もしよろしければご確認お願いします。  

Posted by クラニオアイキ at 2011年05月11日 20:06
コメントありがとうございます。瞑想にそのような種類があるとは初めて知りました。すると、私が常々行っているのは「観」が中心ですね。
最近は政治経済・世界情勢や歴史の流れを大きく捉える書物に関心が向き、若い頃のように人間の内部方面を探求するものを読む割合が減りました。また少し勉強してみようと思います。
ありがとうございます。
Posted by 武道JAPAN管理人 at 2011年05月13日 06:07
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