2010年12月05日

不機嫌の時代 不機嫌からの精神史的考察 山崎正和

本日はNHKで「坂の上の雲」第2部が始まります。

物語はいよいよ日露戦争へと突入して行きますが、本書「不機嫌の時代」は、その日露戦争後の明治に活躍した鴎外、漱石、荷風、直哉といった、時代を代表する作家たちの作品に共通に流れる「ある感情」を抽出してゆくことで、日本の近代化が個人の精神生活に何を引き起こしていたのかを見てゆきます。
いわば、文学作品という地層を発掘することで、当時の社会に起こっていた変化をあぶりだすという快作です。

・・・
ここで取り扱われているものは、鮮明な感情でも確固とした意識でもなく、時代の底を流れている、「気分」〜明確な対象を持たない、ある心の状態、思考や感情が働く基礎になるトーン〜としか言い表せないものであり、それを筆者は「不機嫌」と言い当てた。

この時代における一つの変化は家・家庭にあった。
かつて家庭は、なかば公的なものであった。家庭は「公」の中に存在する「私」であったが、その中に別の「公」を内包していた。
例えば、江戸末期の中産知識階級の家は、多数の食客を抱え、人的ネットワークのハブとして機能していた。家庭の経営は小企業や学校を運営するかのごときであり、そこでは一家の主(あるじ)と共に女房も経営に参加していた。
しかし維新後の近代化によって事業と家庭は分断され、女性の役割は私的な人間関係に限定された。様々な人間感情や事件が、公的な幅広い人間関係の中で起こるのではなく、個人間の確執に矮小化された。

西洋の近代化と個人主義は、古い戒律に縛られた教会の権威を否定し、個人が直接神と対話する運動であり、精神の「開放」であった。個人の中に「神」という究極の「公共」シンボルを引き入れたため、個人の中に「公」が内包されている。
日本の近代化の課程では、ほんらい多元的であった公共を国家だけに限定し、様々な「公」と関わりあいながら生きていた個人を儒教的・封建的な枠組みに押し込んだ。

別の言い方をすれば、江戸時代に自然な風俗や感情の下で多元的な「公共」を内包していた社会は、明治になると人工的な制度と法の下での一元的な公共(国家)に統合された
日露戦争に勝利すると、明治国家が国民を動員する当面の目標を失い、その後に、正体不明の「不機嫌」が時代の気分として蔓延した。

筆者は、この「日露戦争後」という時代の気分〜不機嫌〜を、近代以降の実存の不安であると遠望し、同様の事例を、中世という時代の終わりに登場したシェイクスピア作品の中に発見する。
どちらも、ひとつの確固とした時代が終焉し、人々が根底的な存在の不安を感じていた時代に現れた「気分」であり、その背景は次の仕組みによる。

1)一般に、人が日常的な自己を生きているとき、一連の思考や感情からなる私(内面)と、社会的に認知される一定の役割(外面)、の両方から「私」とは確固たるものだと信じている。これが近代的自我であり、いわば「〜である私」である。この中にいる限り、人は安定している。

2)社会構造が大きく変わったり、自分の社会的ポジションが不安定化して、「〜である私」が確固としたものではなくなる(近代的自我の虚妄に気付く)。

「〜である私」が失われ、「私がある」状態に直面する。その「私」とは何であるかの答えを探さなくてはならなくなる。

3)「私とは何か」は深遠な問いであり、追求してゆくと「無」に至る。
実は、存在には意味はなく、生きてゆくという行為は、刻々なにか(思想や目的や役割)を選び取ってゆく営みである。その選択の最初の一歩(理由なき企て)には、常に根拠のなさ・・不安がつきまとう。これが、正体不明の「不機嫌」となる。
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と、文芸評論を通じて「時代の気分」を探求する試みは、最後に実存哲学へとつながってゆき、誠に知的な快楽を味わう結末となります。

社会が大きく変化すれば人間関係も人間の役割も変わる・・そこから、時代への不適合や自己存在への根本的な問いが出てくる・・しかしその正体を明確に意識も言語化もできぬまま、「不機嫌」という気分の蔓延があらわれる・・

原因から結果を言い当てれば、このようになるのでしょうが、本書はまず、著名作家の作品群に共通して現れる「気分」・・つまり結果のほうにスポットを当て、そこから遡及して、原因である実存の不安に至るという構成になっており、上質なミステリーの謎解きに付き合っているような楽しさがあります。

この時代に、社会と人々がいかに激変の波にもまれたのか、完全には理解できませんが、次のような点にも、その一端が窺えて面白いです。

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明治の青年にとって「愛」とは「権利」「義務」と同様な「新知識」の一種であった。神の愛(アガペー)や肉の愛(エロス)とは別の人間の愛を、感情として感じられるようになるには、社会全体が文化的訓練を経る必要があった。
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私とは何かを探求すれば、実は「なにもない」ことに行き着く。
それは虚しいことでも悲しい事でもなく、そこで、どのように生きるかを自ら選択するところにこそ意味がある。その選択の基準・・個人の「底」・・は、生まれながらに持っているものではなく、積極的努力によって構築するものであり、それがその人の「人格」と呼べるものに育つのでしょう。そして、それらが共有された世界観や倫理観が、社会の「底」であるのかもしれません。日本社会の発展を願うなら、ひとりひとりが人格を磨くべし。

日々修行なり。

読むべし!




posted by 武道JAPAN at 17:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書記録(社会歴史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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