2010年10月09日

「かなしみ」の哲学―日本精神史の源をさぐる 竹内 整一

著者の竹内整一さんは、東京大学文学部倫理学科卒の倫理学者。

日本人は、万葉の昔から「かなしみ」にとりわけ親和し、数々の歌や文学を残しました。子供に聞かせる童謡や、士気を鼓舞するはずの軍歌にさえ、哀調を帯びたものがたくさんあります。

本書は、本来は否定的な感情であるはずの「かなしみ」に向かう日本人の心のあり方は、どのような世界観に基づいているのか?・・という観点から、日本人の心性を解き明かそうという試みです。以下メモ。

・・・

●「かなしみ」は、「・・しかねる」のカネと同根の言葉で、「ちからが及ばずどうしようもない切なさ」を表すが、かつては「愛しい」「見事だ」など心が動くさま(感動)を表す多様な意味を持っていた。
時代が経ると共に、感動のうちでもひときわ強く、深く心を動かす「悲しさ」に意味が収斂されたものらしい。


●「かなしみ」こそが人生をより豊かにする

日本人は、「かなしみ」を通して、自分が永遠の宇宙の一部であると考え、世界の美しさ・神仏などの超越的存在につながる。その行きかたは次の通り。

人間は、有限な存在であり、どうにも「しかねる」運命を持った「悲の器」である。それを追求してゆくとやがて、人は皆いずれ等しく有限の命をまっとうし無限の天に還る身ではないか・・と「天地悠々の哀感」に至る。

天地悠々の哀感とは、「我」を超えた、すべての命を貫いて流れている大きな流れ(超越的存在)に至る気持ち・・人は大いなる流れの一滴であり、無窮の時間の中で一隅を照らす存在であると考える。ここに至り、ある種の安定や救いを見出す。

どうも日本人は、人間を含めた大自然の生命の流れや秩序を感じ取るセンスがあり、国家の興亡も人の生死も、すべてその大潮流の中にある、と感じているらしい。
そういった「大いなる”いのち”のリズム」に「ふっ」と身をまかせきってしまう事で安心する・・というコツを、どこかの時点で体得したようだ。


●「さようなら」とは

日本語の「さらば」「左様なら」「さようであるならば」は、先行する事柄を受け・それを確認し・次に行く接続詞である。

そこには、自己の身に起こったことの確認とともに、自分にはどうしようもできない運命を「そうあらねばならないのなら」と受けとめる態度が見える。

ここにも、大きな命のリズムに粛々と乗っていくセンスが働いている。


●本居宣長の「安心なき安心」

儒教や仏教の教理を「さかしらごと」(利口ぶった知恵・無益な空論)と切り捨てている。
悲しい事を悲しみ、喜ばしい事を喜び、あるがままの世界を受け入れて、その中で可能なかぎりの努力をして生きる事が、神の定めた「妙」なる働きにしたがう道であるとする。惟神(かんながら)の道。


●感性も、学ぶ必要がある

他者の不幸に共鳴して泣くとき、自他を区別する境界が取り払われ、共に大いなる無限の一部であると感じ入る。そのとき、宇宙の一部である「本来の自分」に還る喜びが垣間見える。
これは、ややもすると表層的なセンチメンタリズムにおちいる危険をふくむが、現代において急速に枯渇しつつある日本人の「感情」を養う術としては有効である。

すぐれた感性や「感じ方」は、自然に身につくとは限らず、唄や詩から「型」として学ぶ必要がある。かつての日本人は、現代人とは桁の違う質量の「感情」を持っていたが、年々枯渇している。

・・・

武道を通じて「自然体は自然には習得できない」と理解した私には、「感性も学ぶ必要がある」というのは、良く判る論です。

また、たしかに日本人には、ある時点までくると生への執着さえ”ふっ”と手放すスイッチがあるように思います。武士道や特攻など、個人の生命よりも、より大きな存在や目的の中に命を投じてしまえるのは、有限な”我”の奥深くに、大いなるいのちの流れを観ずるセンスがある故かもしれません。

古今の豊富な事例を引きながら、日本人の独特な宇宙観にせまった労作と思います。

読むべし!





posted by 武道JAPAN at 16:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書記録(社会歴史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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