2010年09月24日

コミュニティ 安全と自由の戦場 ジグムント・バウマン

著者はポーランド生まれのユダヤ人。イギリス・リーズ大学およびワルシャワ大学名誉教授。社会学者。

タイトルのとおり「コミュニティ」を軸に、我々の社会はどうなっているのか?を考察した一冊です。
「安全と自由の戦場」というモノモノしい副題が付いていますが、コミュニティは安全を提供してくれると同時に自由を制限するものであるから、安全が欲しいなら自由はガマン、自由でいたいなら安全は諦めよ、というトレードオフの関係・・といった意味です。

著者の癖なのか?とても難解な構文で、現時点の「2010年 読みにくかった本 第一位」です。翻訳者も「バウマンの英文には手を焼いた」と書いています。
そんなこんなで薄い本のわりには読み進むのに難渋しましたが、近現代社会の本質的問題をスッキリ理解できたと思います。以下メモ。

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●近代社会は3段階を経て現在に至る

1)国民国家の成立期
人々に安心や安全、困った時の助け合いを与えていたローカルコミュニティが消滅し、実体を実感しにくい「国家」が創造された時期。
日本で言えば、明治維新によって藩や村から「日本国」に変わり、人々が「日本国民」になった頃。伝統的コミュニティからの移行期。

2)固体的(ソリッドな)近代
伝統的コミュニティから人間を「引っこ抜いて、植え替えた」時期。
共同体のなかで、それ自体が名誉や貢献や喜びであった「仕事」が、単純で無味乾燥な「労働」に変わった。この新しい社会環境に人々を順化させるため、社会学は新しい概念を啓蒙し、企業経営者は仕事だけでなく従業員の生活全般の面倒を見た。
例えば、高度成長期に地方から上京し、郷里のコミュニティから離れ、終身雇用の職場に新しいコミュニティを見出した頃。人工的コミュニティが形成された時期ともいえる。学者や経営者などの社会エリートが下々のものに「大いなる関与」を与えた時代。

3)液状的(リキッドな)現代
エリートが「大いなる関与」を放棄し、「撤退」を始めた。「固体的近代」に見られたパノプティコン(刑務所などにある展望監視台)式の管理はなくなり、蜂をコントロールするのに花の植え方を工夫するような遠隔管理に変わった。
自由な競争が奨励され、人々は(クビにならないように常に自分の能力をアピールするような)自発的な動機付けによって自らを拘束する。個人間には競争原理が働き、連帯する風土はなくなり、バラバラで孤立した個人に分解される。
自己責任が問われ、会社や社会をあてにせず自分の能力と根気を頼りにせよ、と突き放される。にも関わらず、安全や安心は常に保証されていない。コミュニティが消滅した時代。

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●グローバルズとローカルズ

世界は、グローバルに活動できる一部のエリート(グローバルズ)と、取り残されどこへも行けない人々(ローカルズ)あるいは生きのびるために国境を越える下層市民に分離しつつある。
エリートは、安全と安心を確保するためゲーテッドシティ(警備員に守られ部外者立入り禁止の区域)に住み、最下層市民はゲットー(はきだめ)に追いやられる。どちらにも、安心や安全を保証してくれる「コミュニティ」は存在しない。

※バウマンが念頭に置いているのは、主に欧米の移民がたくさんいる環境だと思います。日本は、まだここまで悲惨な状況に到達していませんが、中国からの3K移民流入を野放しにすると同じ事になるでしょう。

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●多文化主義批判

様々なエスニック・マイノリティに、それぞれの文化(差異)があるのを、あるがままに認めましょう・・という、なんとなく耳障りの良い「多文化主義」の本音は、「差異は埋まらないし、特定の人々が貧しい境遇にいるのも仕方ないよね」という、責任放棄と無関心である。

※新自由主義的な「自己責任論」もそうですが、一見もっともらしい言説の背後に、強者に都合の良いロジックが埋め込まれている場合が多いので、注意しなくてはなりません。

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●コミュニタリアリズム批判

(自由の極大化を是とするリバタリアニズムは論外として)共同体に特有の価値観を大切にしようとするコミュニタリアリズム=共同体主義(※以前のブログ「これからの正義の話をしよう − いまを生き延びるための哲学」で書いたマイケル・サンデルなどはこの立場)を次の2点で批判する。

1)社会が抱える問題の本質「原子化」から目をそらす
2)コミュニティを取り戻そうとする努力は実らず、より原子化圧力を増す

※なぜ努力は実らないと言い切るのかは、何度読んでも了解できませんでした。コミュニティの境界線に線引きするのを止めて、より進化し統合された世界を目指せという主張のようですが、それでは鳩山元首相の「友愛」みたいな絵空事にしか聞こえませんし、いまのところバウマンにも「策なし」なのかも?
それよりも、ここで重要な概念は「原子化(atomization)」です。

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おさらいすると、

・伝統的コミュニティの中では、人は安心や安全、困窮した場合の支援をあてにできた。ただし安全と自由はトレードオフなので、コミュニティ内の人間関係は窮屈でもある。(例:田舎の村コミュニティ)

・近代産業社会は伝統的コミュニティを破壊し、人造コミュニティに作り替えたが、別種の安心や安全、社会保障などが整備され「まだマシ」だった。(例:終身雇用制度)

・グローバリズムの進展で(経済・政治を司る)エリートはコミュニティの維持に関心を無くして「撤退」戦略にむかい、社会にはバラバラに孤立した個人が寄る辺の無い不安な人生の中に残された=これが原子化(atomization)。今はココです。

「テロリズムの罠<左巻>新自由主義社会の行方」で、佐藤優がこのような主張をしています。

「グローバリズムでは、一部の経済エリートと、それに結びついた政治エリートのみが肥え、バラバラな原子(アトム)に分断された一般市民は、冨を搾り出す原材料として使役される。」

たぶん、バウマンが見ているものと同じでしょう。

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我々は、一人で対処できない問題に対して助け合い、安全と安心を期待できる共同体を必要とします。なのに、グローバリズムの進展は、共に生きるものの紐帯を切り、共に働くものの連帯を壊します。

ジャック・アタリは、資本主義の野放図な拡大が、国家というコミュニティすら凌駕する可能性を、「超帝国の出現」として予言しています。(→「21世紀の歴史―未来の人類から見た世界」

今後は、世界各国で「市場(資本)の力」と「国家の統治力」が攻防を激しくするのではないでしょうか?
(例:オバマは、金融規制法案を成立させて、リーマンショックを引き起こしたモラルなき投資銀行の暴走を押さえ込もうとしている)

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さて、とはいえ。

国民国家は生き残るのか、巨大な世界企業や財閥が勝つのか、それとも共存するのか?一般市民は体内にチップを埋め込まれて一部エリートに支配されるディストピアが来るのか、資本市場が世界を覆った結果として戦争のない世界が出現するのか?・・は判りませんし、どうなるにしても数十年単位の先の事でしょう。

我々が影響を及ぼせるのは、そこに至るまでの現在〜近い未来にかけてです。

現下、現実的に市民の生活に影響を与えうる共同体は「国家」ですし、米国の一極支配が終焉し中国の台頭を迎える世界においては、国家同士はまさに「しのぎを削る」状況に向かっています。

この状況下では、我々は政治力・経済力・軍事力・文化力を結集し、我々が運命を託している「日本という国家の力」を強化しなくてはなりません。

前にも書いたのですが、ロシアや中国は、自由主義的な経済を内包しつつも実態的には少数の独裁者による専制という「中央集権的資本主義」というか「国家主導型市場経済」というか、(けして褒められたものではないにしても)効率はよくて競争に有利な形態を取っています。米国も、産業界と政治の間でさかんに人材の交流が行われています。
日本も、「官民一体」とか「護送船団方式」と呼ばれた国家(国家とは抽象概念ではなく、政府+霞ヶ関に代表される行政機関、という実体である)と企業のガッツリな連係プレーが、今後再び必要になるでしょう。実際、海外に鉄道や原発を売ろうというなら、企業任せでなく政府がサポートしなくては難しいですからね。

というわけで、日本の力を弱める反日的な日本人や、個人の自由ばかり主張して伝統的な価値観をないがしろにする人間は、今後の世界において真剣に国家の敵です。チーム対抗総当たり戦が始まっている世界で、チームの利益に反するからです。

我々は、新たな共同体意識を呼び覚まし、コミュニティの力を強化する良い影響を、自分の身の回りに拡げてゆきましょう。日本のために!

読むべし!





posted by 武道JAPAN at 18:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書記録(社会歴史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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