2010年05月30日

下流志向 ─ 学ばない子どもたち、働かない若者たち 内田樹

昨年「日本辺境論」がベストセラーになった内田樹さんの2005年の講演をベースにして2007年に出版された本。

学級崩壊やニート問題を探求したものですが、統計・分析や対策・提言等ではなく思索的な内容です。自分の子供がニート化して困っている人が解決策を求めて読むという本ではありませんが、思いもかけない視点を与えてくれました。
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1980〜90年代を境に、どうやら「新しい日本人」が出現している。

●視界の中に意味の判らないものが存在しても気にしない人間

大学生がレポートに「無純(矛盾のこと)」「精心(精神のこと)」と書く。本を読まないから、ではない。この程度の漢字はマンガや雑誌にも出てくる。そこで、ファッション誌の1ページをコピーし、意味の判らない言葉にマーカーで線をひいてもらったら膨大に印が付いた。つまり意味が判らないで読んでいるが、どうもそれを気にしていない。雑誌でこれなら、新聞の経済や外交欄は意味不明であろう。

かつては、意味を知らないと気になり勉強した。世界に穴があると不快なため、埋めようとするのが普通だった。今は、意味の解らないものは平気で読み飛ばす。世界が「意味の穴だらけ」でも気にしない。穴が膨大にあるため、新しい穴が増えても関係ない。

●消費者として幼児期に自己確立する人間

かつて子供は、初めて社会に参加するときは「働き手として」だった。親の手伝いや兄弟の面倒をみることで社会(家庭)に参加し、能力や貢献を認められて自己承認を得た。そこでは、成果を手に入れる(一人前と認められる)までに努力や時間や成長が必要であった。

ある時から、初めての社会参加を「消費者として」体験する子供が増えている。コンビニでお金を払えば子供でも大人と同様に商品が手に入り、「ありがとうございました」と言われる。この原初体験は大きい。「働き手として」4才の子どもが大人同様の存在意義を発揮するのは不可能であるが、「消費者として」金銭を支払えば、子供でも大人と同等に扱われる。こうして、消費者として自己確立を早期に完了してしまった子供が出現する。

消費者の論理は、等価交換無時間性である。差出したものと「等価の見返り」を「即座に」要求する。この論理が、学校や職場に持ち込まれている。

子供は、消費者として学びに参加し、「それを学ぶと何の役に立つんですか?(=学習に耐えるという苦痛を支払えば、何が貰えるんですか?)」と質問する。これでは学びが成立しない。なぜなら、「学ぶこと」は消費の論理で説明できないからだ。

支払いに見合った対価(しかも、子供にも理解できるような対価)が貰える保証がないと判断すると、子供たちは学ぶ事をやめてしまう。捨て値で、未来を売り払ってしまう。

しかも、消費者(買い手)として学びに参加するため、できるだけ有利な取引を得ようとして「あんたの差し出す商品には全然興味ないよ」というポーズをとる。授業に興味がある素振りなど絶対に見せてはいけない。こうして子供たちは自ら学ぶ権利を放棄してゆく。

無時間性を要求すれば労働も対価に見合わない。どこの会社でも、最初から重要で報酬の高い仕事は任せてもらえない。努力に比して報酬は後から付いてくる。しかし、消費者としての論理は「等価の見返り」を「即座に」求める。それが実現されないと労働を「割に合わない」と判断してニート化する。

●不快という貨幣

子供達は学校で「授業」と「貨幣」を交換するわけでない。自分の「不快感」を貨幣に読み替えて、授業と等価交換しようとする。「授業時間の苦役に耐える不快さ」と「授業」を天秤に載せ、少しでも有利な取引を求めて自分の不快さを高く売りつける。この「不快貨幣」の起源はおそらく家庭にある。

かつての狩猟時代や給料袋があった頃には、家産への貢献が獲物の肉や現金という形で家族全員に認識できた。
それらが消えた現代日本の家庭では、父親が夜毎持ち帰る疲労感が記号として流通している。疲れた父親は家族とのコミュニケーションを断って不機嫌さを表現し、母親も、そんな父親の存在に耐えることで不快さを主張する。「不快」を多く持っているものほど家庭の中で権利を獲得できる構造のため、家族全員が他のメンバーに対する不快さを競ってしまう。

●学びの本質

学び始める時点で、その学びによって将来何が得られるかは判らない。判るときには学びを終えている。つまり「それを学ぶと何の役に立つんですか?」という問いに対しては「答えはない」というのが正解。
学ぶとは、現在の自分の価値判断をカッコに入れ、何が得られるか今の自分には判らないものに向かってゆくこと。この本質がわかった人間は、どんな事も学んでゆける。

●リスク社会と自己責任

一生懸命勉強すれば良い仕事が保証された時代が終わり、努力が報われるとは限らない「リスク社会」が訪れた。しかし、努力が無用になった訳ではなく、一番リスクを回避できているのは依然として努力している人々である。そこでは、努力の意味を信じられるか否かが重要となる。

親が高学歴であり成功している家庭の子供は努力の成果を信じやすいが、低学歴で「学歴なんか役に立たない」という親元で育った子供は努力の重要性を信じにくい。親の経済格差以外に、この作用があると思われる。

政府が主導して、リスクの選択と結果を個人が引き受ける「自己責任」イデオロギーを普及させている。

リスクを引き受けて生きることは強者にしかできない。しかし現実世界での強者たる有力政治家・高級官僚・資産家一族などは閨閥を組み、セーフティネットを構成している。反面、弱者である一般庶民にはリスクから保護してくれるセーフティネットはない。

かつては貧乏人にも親族兄弟や迷惑を掛け合う友人などのセーフティネットがあった。失業しても親戚の家に転がり込み、仕度を整えて出直せた。しかし、リスク社会となり、全ては個人の責任に帰結され、下層市民同士のネットワークが絶たれた結果、リストラされると即ホームレスになるという現象が現れた。

個人の責任でリスクを取って生きる・・というのは、強者が弱者に押し付ける生き方(というか死に方)である。そこでは、個人の自立というより、バラバラになった個人の孤立が起こっている。

セーフティネットが消えたリスク社会において責任と結果だけが個人に押し付けられ、リスクを回避する方法は誰も提示しない。

国家としてもリスクヘッジの考え方を失っている。60年以上も戦争をしていない為、「致命的なリスク」を回避する思考や外交政策が無い。これは大変に危険な事である。

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・・と、非常に刺激的な内容です。

解決策が提示されていないのは残念ですが、国家の力をもってしても市場と資本の力を止められない以上、簡単な解決策など存在しないでしょう。
しかし、子供を育てる過程で親が留意すべき点を学べたと思います。

●子供に社会参加させるべし

「消費者」として自己確立させるのではなく「働き手」として最初の自己承認の機会を与える。子供にとっての最初の社会は家庭であるので、お手伝いを命じて家事に参加させ、できたら褒める。昔の家庭が当たり前におこなっていた事。

●親(主に父親)は不機嫌さを家庭に持ち帰らない

「不快貨幣」を流通させ、家族全員がお互いを不愉快さで排斥しあう家庭など言語道断。家庭のあるべき姿とまさに正反対です。肝に銘じましょう。


まるごと「その通り」かどうかは慎重な判断が必要ですが、とても示唆に富む視点を与えてくれます。単純に言って面白いです!

読むべし!





posted by 武道JAPAN at 17:04 | Comment(1) | TrackBack(0) | 読書記録(社会歴史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
気になっていた本でした。
書評参考になりました。
消費者として社会に参加する子供ですか。
それは問題大ありです。

労働者として社会に参加させる、と言う言葉には、少し違和感を覚えます。
何故だかまだ理由は分かりませんが^^;)

まずは家族の一員としてのお手伝いは大賛成です。多分そこから自己を確立させると思うんです。

ただ私が、労働者としてという言い方に古さを感じてしまうのか、条件反射的な嫌悪感を感じるのかもしれません。

消費者という言い方もなんだか嫌ですねえ。
何かあると「消費者の選択が広がるのは結構なことですね」なんて米国風のマスコミのコメントにイラッと来たこともあります。

なんでしょう、私、すごいひねくれ者みたいですね。

消費者、労働者、、、、。
構造主義者内田氏の世界観なのかなー。

横柄な消費者、団結する労働者。
そんな言葉を連想してしまいました。

なんだか愚痴みたいなコメントでスイマセン。
Posted by じゃが〜 at 2010年05月30日 19:28
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