2010年10月30日

忠君愛国の後遺症 ─生きる知恵としての修身、道徳─ 水口 義朗

本日は、1890年10月30日に教育勅語が発布されてから、ちょうど120年目です。

本書「忠君愛国の後遺症」では、かつて広く親しまれた「修身」や「教育勅語」という、具体的なマナーやモラルについて紹介しています。
単なる復古や懐古ではなく、その成り立ちや内容、なぜ失われてしまったかの歴史的経緯などまで語られています。

著者がコラムニストのためか、論旨がやや散漫で、全体を通してどのような結論を導きたかったのかハッキリしない印象はありますが、参考になるポイントが多々ありますし、後半3分の1には尋常小学校の「修身」教科書が当時のままに添付されています。この部分だけでも所蔵する価値があります。

・・・

近年、さまざまな価値観の見直しが行われているが、自由平等への再考もそのひとつ。個人の権利や自由のみが拡大解釈され、他人にも自分と同様な個人の尊厳があることを見落とした身勝手な理屈が多い。

かつて日本には「修身」という具体的な方法論があり、小学校で教えられていた。
これは、日常生活をスムーズに、家族が仲良くし、地域や学校でゆずりあい助けあって生活する知恵とマナーであり、自然法に近い内容であった。(「ヨク マナビ ヨク アソベ」「トモダチハ タスケアヘ」など)

終戦と共に、戦争に関わりのありそうなものは全て抹殺される風潮の中、日本人として、人として、必須のマナーやモラルまで吟味せずに全部捨ててしまった。「修身」も、公共への奉仕・協力や、献身という美徳が、軍国主義や全体主義と混同されたまま否定されてしまった。

代わって「公」への反発や否定から「私」の優先、個人の自由、が強調されていった。

この修身・道徳教育の根本規範とされたのは明治天皇の「教育勅語」であった。以下は、教育勅語の口語訳と、重要とされる12の徳目。

「私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。そして、国民は忠孝両全の道を全うして、全国民が心を合わせて努力した結果、今日に至るまで、見事な成果をあげて参りましたことは、もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。 

国民の皆さんは、子は親に孝養を尽くし、兄弟・姉妹は互いに力を合わせて助け合い、夫婦は仲睦まじく解け合い、友人は胸襟を開いて信じ合い、そして自分の言動を慎み、全ての人々に愛の手を差し伸べ、学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格を磨き、さらに進んで、社会公共のために貢献し、また、法律や、秩序を守ることは勿論のこと、非常事態の発生の場合は、真心を捧げて、国の平和と安全に奉仕しなければなりません。そして、これらのことは、善良な国民としての当然の努めであるばかりでなく、また、私達の祖先が、今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、さらにいっそう明らかにすることでもあります。

このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、私達子孫の守らなければならないところであると共に、この教えは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、また日本ばかりでなく、外国で行っても、間違いのない道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖父の教えを胸に抱いて、立派な日本人となるように、心から念願するものであります。」

 1. 親に孝養をつくそう(孝行)
 2. 兄弟・姉妹は仲良くしよう(友愛)
 3. 夫婦はいつも仲むつまじくしよう(夫婦の和)
 4. 友だちはお互いに信じあって付き合おう(朋友の信)
 5. 自分の言動をつつしもう(謙遜)
 6. 広く全ての人に愛の手をさしのべよう(博愛)
 7. 勉学に励み職業を身につけよう(修業習学)
 8. 知識を養い才能を伸ばそう(知能啓発)
 9. 人格の向上につとめよう(徳器成就)
 10. 広く世の人々や社会のためになる仕事に励もう(公益世務)
 11. 法律や規則を守り社会の秩序に従おう(遵法)
 12. 正しい勇気をもって国のため真心を尽くそう(義勇)

このように、教育勅語には人が生きるための基本的なモラルが含まれており、現代にも充分通用する。発表後には各国語へと翻訳され、世界でも非常に高い評価を得た。

しかし、1930年代になると無闇に神聖視され、本来の趣旨から離れて軍国主義の教典として利用されてしまう。結果、終戦後は教育の表舞台から排されてしまった。

「教育勅語」を復活させれば、現代のアノミー(無規範)状態が解決されると考えるのは粗雑に過ぎるが、このように普遍的な価値を持つ規範を教育に取り入れることは必要ではないか。

・・・

と、分りやすい提言をしています。

さらに感心したのは、「修身」や「教育勅語」の普遍的価値を認めながらも、戦前の日本では、これらによって秩序と道徳が保たれていた・・と単純に結論していない点です。

例えば、戦争が終わった途端に、昨日まで「忠君愛国」「滅私奉公」を唱えていた将校たちが、大量の軍事物資を横領して山分けし姿をくらましてしまった事例などをあげて、指導者達に真の愛国心が育っておらず、戦争をするためだけのまやかしの愛国教育が行われており、本当に「教育勅語」や「軍人勅諭」の精神がひとびとの内面に確立されていたのかは疑問である、としています。

そもそも、「教育勅語」そのものが、明治維新後の西洋文明流入によって乱れた社会風俗を憂えて発布されたという背景があるようですから、真の問題は、日本固有の文化を急角度で方向転換したあたりにありそうです。

近代国家建設にあたって、キリスト教という強力な一神教で武装した西洋の侵蝕に対抗するため、天皇に政治・軍事・道徳のすべての権威を集中させた「天皇一神教」を人為的に作り上げていった日本ですが、もともと日本的でなかったこのシステムは、やはり根付いていなかったのでしょう。敗戦と共に天皇が人間宣言をすると、簡単に結束点がくずれ無効化しました。(やはり天皇陛下には、古来よりほとんどの時代がそうであったように、聖なるものの権威の象徴として存在していただき、軍事だの政治だのの雑事に煩わされるべきではないと思います。)

やがて、ひとびとの意識は、明治以前のムラ社会を基盤にした共同体レベルの大きさへと戻り、一部を宗教が、一部を社会主義運動が、一部を終身雇用の企業が吸収していったのではないでしょうか。時系列で見ると、こんな感じです。

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江戸時代の「村」「藩」といった、地域レベルの共同体
 ↓
明治以降の「天皇」「国家」への集中・一元化
 ↓
終戦後の「(終身雇用の)会社」単位の共同体
 ↓
新自由主義的な個人主義?
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つまり、「ムラ社会」から「国家レベル」へ強引にまとめたが、また「ムラ的共同体」へ戻り、現代はさらに分解して個人レベルへ孤立しつつある。その過程で、アノミー(無規範)状態が顕著になってきた。
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そもそも日本には、論語をベースにした内面的な道徳心の現れである「恥」の感覚がありますが、「恥」は「世間さまに対して恥ずかしい」・・という様に、対象に向かったかたちで発動します。「世間さま」と呼ぶのにふさわしいような、互いに助けあい、また監視しあう、ムラ社会的な共同体が私たちの道徳心の対象であり、その世間がなければ、恥じる対象がないため、恥そのものもない。つまり、現代の道徳低下の原因は、私たちが道徳心を向けるべき世間=身近な共同体が存在しない事なのではないでしょうか。

そして、今後ますます、共同体の力は弱められてゆく可能性が高い(コミュニティ 〜安全と自由の戦場 ジグムント・バウマン)・・もしかすると、解決策は、教育基本法に愛国心を書き込む事などではなく、新しい共同体のカタチを作り出すこと・あるいは家庭という最小単位の共同体や、個人個人の模索から出発すべきなのかもしれません。本書に収録されている、尋常小学校「修身」教科書は、なんらかのヒントを与えてくれると思います。

武道をたしなんでいると「型」の重要性が分ります。初心者はまず型を学ぶわけですが、これは技を究めた先人が究極の奥義として残したものですから、初心者がいきなりマスターできるわけはありませんし、やっている事の意味も理解できません。それでも、型を磨いてゆくうち、やがて技の真髄に到達するものですし、それ以外に至る道はありません。
道徳や徳育というものも、理屈からではなく、型・具体的な振るまい方から教えるべきではないでしょうか?

読むべし!!





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2010年10月23日

ちょんまげぷりん 荒木 源

「ちょんまげプリン?」なんだそのタイトルは?

奥さんが図書館で借りてきて、何度も吹き出しながら読んでいたので気になって読み始めたのですが・・面白くて一気に読み切り、すぐ「ちょんまげぷりん2」を購入してしまいました。

180年前の江戸からタイムスリップで東京に現れたサムライ・木島安兵衛。見るもの聞くもの、何もわからぬ世界で行き倒れそうになった彼を助けたのは、6歳の息子を育てながら働くシングルマザーの遊佐ひろ子だった。
江戸に帰る手立てもないまま居候の身となった安兵衛は、ひろ子への恩義を返すため家事を受けもつことになるが、そこで意外な才能を発揮する・・

江戸生まれのサムライが、料理の腕を磨くうちにスイーツ作りに熱中し、コンテストに出て有名パティシエになる・・という荒唐無稽な展開に加えて、随所にあらわれるユーモアに何度も笑います。たとえば、スーパーでの買い物に関する安兵衛のメモなど秀逸です。

「入口ニテ籠ヲ取リ、欲スルトコロノモノヲソノウチニ入レルベシ。シカシ入レタルモノノ代金ハ出口ニテ徴収サルル仕組ナリ。調子ニ乗リテハ財布空トナルベシ」

そして全体を流れる小気味よいテンポと二転三転するストーリー。なによりも、サムライとしての信念を失わない安兵衛の立ち居振る舞いが魅力です。

「うちむきのことは女がするもの」と決め付けていた安兵衛ですが、ぞうきんがけ一つで家中をぴかぴかにし、インスタントやレトルト食品を排して手作りおかずを熱心に研究します。「やる」と決めたからには手抜きをしない、ものごとに向かう姿勢の真剣さが、刀を振り回して活躍するよりも、よほどサムライらしさを醸しだします。

「安兵衛語録」がまた素晴らしい。

・・・「(現代では)違うの。男と女、武士と町人、みんな平等。家柄も関係ない。才能があれば、なんにだってなりたいものになれるわ」
「あさましい世の中でござるな」
「あさましい?」
「そうではござらぬか。人は己をわきまえねばなり申さぬ。そのようなわきまえぬ心持ち、あさましいと言わねば何というのでござる」

「人には分というものがござる。分をわきまえて生きるのがまことの人の道と申す」

「男はやたらなことで泣かぬものじゃ」

「ならぬことはならぬと申さねば、子供には分り申さぬ」

「子供の横暴は、親が手伝いをさせぬことに一つの理由があると存ずる」

「子育ては家事のうちでも大業でござる。片手間には決してまっとうでき申さぬ。その覚悟が大事なのでござる」・・・

娯楽小説として楽しく読むうちに、現代の日本人が欠落させてしまった大事なものをあらためて教えられる、そんな一冊です。
自由・平等を否定する気持ちはありませんが、安兵衛の言葉を聞いているうちに、「日本で伝統的につちかわれてきた、社会を安定させる定まった型」や「一本筋の通った精神的な背骨」というものが、現代社会からは失われているのだなあ・・と思えてきます。

そして「ちょんまげぷりん2」では、逆タイムスリップで東京から江戸へ!
偶然でしょうが、ここのところ重大な問題になっている「検察による冤罪・ストーリーありきの事件ねつ造」と全くおなじ状況に主人公が巻き込まれ・・このあたりは、笑ってはおられません。ハラハラし通しの展開を、一気呵成に駆けぬけます。表紙を飾る、上條淳士のイラストも光ってます。

読むべし!




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2010年10月16日

日本の「戦争力」 小川 和久

「戦力」ではなく、外交、政治、軍事を含めた、日本の総合的「戦争力」を論ずる一冊。著者は、軍事アナリストとして有名な小川和久氏。

一問一答形式で、読みやす〜く軍事と国際情勢を解説しています。

自衛隊ができた経緯から始まって、海上自衛隊と海上保安庁の役割は?とか、イラク戦争支持は筋が通っていたか?北朝鮮の暴走を防ぐには?などなど・・実に多岐にわたる問題に答えています。
初心者にも判りやすく、中高生が読んでもよいほどですが、時には軍事面だけでなく、政治外交の考え方・哲学にまで踏み込んでおり、内容が充実しています。

一般的なマスコミに流布している情報が、いかに表層的で誤解の多いものかも判ります。
全世界に展開する米軍にとって、日本列島とはどんな位置づけにあるのか?など、突然に視点の高さが変わるほどの衝撃です。以下メモ。

・・・

●自衛隊の戦力はいびつである

ドイツと共に、日本の戦力はかなり変則的で、米軍を補う役割に歪曲されている。
潜水艦探査や機雷の掃海・航空防衛は世界最高レベルだが、打撃力や日本国外への戦力投射(プロジェクション)能力がなく、そちらは米軍が握っている。

つまり、米軍が「動ける」ようにサポートする能力しか持たされておらず、独立して作戦を完遂できる軍隊ではない。


●米国の「対等な」同盟国など存在しない

米軍の軍事力は世界で突出しており、対等な関係の国家などない。米国は世界中に同盟国を持つが、全て片務的か、中には全面的に米軍に依存する国さえある。それでも米国は、自国の国益に合致するからこそ軍を展開しており、慈善事業はない。

つまり、片務的であることを後ろめたく感じる必要などない。そもそも、米国は日本が対等の戦力を保持するなど絶対に許容しない。


●集団的自衛権の議論は戯れ言

集団的自衛は、ほぼ対等の戦力を保有するもの同士でのみ可能。国外への戦力投射能力がない自衛隊には、最初から不可能。見方を変えれば、国内に米軍基地を貸与し、サポートしている時点ですでに集団的自衛権を行使しているとも言える。


●日本は代替不能な米軍の戦略拠点

米軍は、米国本土に次ぐ量の燃料や弾薬を日本に備蓄しており、ここを足場にして地球の半分に展開する。また、横須賀は第7艦隊の母港であるが、港ならどこでも空母の(一時寄港先でない)母港になれるわけではない。
これらを実現する安定した高度な社会インフラが整う場所は、日本以外に見出せない。

そのため、米国にとって日米同盟は、他の同盟国と比較不能なほど重要で、米軍機の事故などで民間人に被害が出た場合、速やかに相当な地位の人物が出て日本にだけは謝罪する。他の同盟国に謝罪した例はない。韓国には「いやなら出ていくぞ」と言うが、日本には言わない(言えない)。

日本人もこの現実を理解し、米国への不必要な負い目は捨てるべきである。ただし、同盟国としてできる事も決断しないようだと、頼りにならないパートナーと見られる。


●縦割り行政が日本の安全を脅かす

例えば海上保安庁と海上自衛隊で、同名の艦船が多数存在しており、いざ統合的な作戦が必要になった場合など混乱の元である。

官僚は、自分の組織外には責任も権限も持たないため、幅広い国益を忖度した判断はできない。縦割り組織を統合する国家安全局のような組織が絶対に必要。


●憲法と自衛隊

憲法は、9条だけでなく全体を見直すべき。戦争放棄を謳いながら、戦争とは何かを規定していないなど、不備が多すぎる。
いったん制定したものを金科玉条の如く固持するのは日本人の悪い癖。実情に合わなくなってきたら変えなくてはダメ。
その際、「侵略戦争は断じてしない」と入れれば良い。これは日本の強い外交力になる。

日本国憲法について、海外の研究者の解釈は、一般的な日本人の印象と違う。
日本では、ガンジーの無抵抗主義のようなイメージで受け取られているが、海外では、憲法前文を「戦争のない平和な世界を作る」という日本の理想の表明であり、9条を「侵略戦争をしない」という意思の現われと見る。

自衛隊と憲法は矛盾していない。それどころか、戦力投射能力を持たない自衛隊は、まさに9条の理念に沿って生まれた軍といえる。侵略の可能性を否定し、国際的な災害救助などに積極的に貢献すれば、日本の強力な平和構築力となる。


・・・

平和を実現するためには、対極にある「戦争」を理解しなければなりません。

大前健一氏が「21世紀の世界では、集団IQが高い国家が勝つ」なのに「日本人は情緒のみで論理がなく、ものを考えない」と警告しています(→「知の衰退から如何に脱出するか」)が、私は、日本人はバカではなく、重要で正確な情報が伝わっていないのだと思っています。現実にもとづいた情報がなければ、情緒的な対応しかできなくて当然です。

そのためにも、このくらい基礎的な軍事知識はおさえておきたい。

武道に「力愛不二」という言葉があります。力と愛は二つに分けられない・愛のない力は暴力であり、力のない愛は無力であるから・・という意味です。
平和を希求するならば、単に平和を唱えるだけでなく、それを実現する「力」が必要であるのは明らかでしょう。「力」は、武力だけでなく、知力、勇気、決断、忍耐、包容力など、すべてを指します。

そういった点で、外交、政治、軍事を含めたトータルな「戦争力」という本書の提起に、強く共感します。国際社会で名誉ある地位を占めることは、軍隊や政治だけで行うものではなく、国民全体の総合「力」で成し遂げるものです。

その土台になるのは、どのような世界を望むのか、という日本なりの理念でしょう。

西郷隆盛は、「国家は正義と大義の道に従うのが明らかな本務である。正道を歩み、正義のためなら国家と共に倒れる精神がなければ、外国と満足な交際はできない。」と言っています。(→「代表的日本人」

礼・徳・和・正義・公正・信義・武士道・正々堂々・卑怯をにくむ・弱きをたすける・正直者が馬鹿を見ない・・

他国から輸入されたものではなく、我々の心にビシッ!と響く言葉を、日本人の理想として国家の背骨に据える。そこから日本の「戦う力」が構築されるはずです。

読むべし!



posted by 武道JAPAN at 19:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書記録(政治経済) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月11日

数字が明かす日本人の潜在力 林知己夫 櫻庭雅文

自分の読書メモとして始めたこのブログも、武術の専門書やマンガを除いて、ついに100冊目になりました。千冊まであと900冊です!(いや、嘘です。別に千冊を目指しているわけではありません)

さて100冊目となる本書は、図書館で偶然見つけたものですが、とても内容が良かった。。たいへん勉強になりました。

著者の林知己夫さんは統計学者。正四位勲二等理学博士。統計数理研究所第7代所長。
データによって現象を理解する「データの科学」を提唱し、実践。日本人の国民性に関する調査を50年にわたって続けたそうです。残念ながら2002年に他界されています・・もっとこのような有益な研究を続けていただきたかった。。

本書は、そのデータから導き出された日本人の特性を、礼賛するでも卑下するでもなく、実に素直に「こういう風です」と紹介しています。統計に基づく予断のない中立な記述は、きわめて真摯で信頼に足るものと感じました。以下メモ。

・・・

●諸外国について

・科学文明への信頼度や、金銭感覚、人間に対する信頼感や距離感などで統計を取ると、日本だけが何もかも特殊だったり、アジア人同士なら近いといった事実はない。

・先祖、家族、宗教に関する考え方では、オランダや英国は日本人に近く、独・仏・伊は遠いが、人間関係重視の傾向では、ドイツが日本人に近く、英・米・伊は遠い。

・インドネシア、タイ、シンガポール、マレーシアでも、「残業して人の仕事を手伝うか」「お金があっても働くか」などに対して各国各様である。現地に進出する日本企業は、よく理解が必要。(管理人:詳細データは実際に本を見てください)

○アメリカ文明の強さ

・米国の強さの秘密はプロテスタンティズム。欧州はほとんどカトリックで、いまや宗教は生活の表面に現れず、基底をながれている。米国では道徳と結びついて規範となり、生活の表面に顕在している。これが若さのある社会を作っている。

・スタンダード(基準)化がうまい。そもそも50の州と移民をたばねて作った国。ひとつの判りやすいスタンダードを作り普及する(管理人:そういえばパソコンのOSやマクドナルドも?)。

・アメリカ文化は、歴史の土台がなく、「あうん」の呼吸が通じない社会でうまれたため、合理的で論理的なタテマエを押し通す。強力で、ハマると抜け出すのが難しく、極端まで行きつきやすい。「民主主義・自由・平等」を強硬に押しつけるグローバルスタンダードの弊害のもと。(管理人:文明の中のサイボーグかな?強いけど、「ほどほど」や「まあここはひとつナカを取って」が通じない。。)

○日本人と中国人

・同窓会や学会などで、ごく自然に幹事を選び事務局を作って組織運営ができる・・というのは日本人とユダヤ人だけ。非常に特殊な能力。

・中国は英雄主義。始皇帝から毛沢東まで、トップに強大な権力が集中し末端まで指示する。中間組織を活用しない。知識も独り占めする。トップが替わると継承しない。(管理人:日本では反対に、官僚組織が分厚く、政治家が変わっても変化しないですが、良し悪しですな。。)

・日本と中国では、もとめるリーダー像から社会の仕組みまで、まるで違う。


●日本人と政治

・日本では一個人への権力集中を避ける。大統領制はなじまない。

・白黒ハッキリより和や中庸を好む。対立を好まず、根回しして妥協する。二大政党制が根付かない。

・政治が仕事をすれば、良いことばかりでなく負の面も出る。すると、自虐的でネガティブ面に注目する国民性が出て、内閣支持率が下がる。統計的に、支持率が下がらなかった内閣は、何もしなかった内閣である。(例:細川・海部など)

・日本では、国民が食えない時代には革新(社会主義)に支持が集まるが、生活が落ち着くとけっきょく保守に戻る。思想と生活は別のはずなのに分化していない。つまり「思想としての」保守・革新ではない。国民の政治への要求も、経済が多い。

・日本人には「保守思想」も、情緒を排して科学と理性で社会を律しようと考える「革新的イデオロギー」も、共になじまない。安定した保守が、少数意見も取り入れながら運営する・・というのが、統計からみた国民性に合っている。


●仕事と社会

・日本の組織では、トップは精神訓話/現場が創意工夫する。これは勝っている時は強いが負け始めるとまずい。小出しの対策を順繰りに出して被害を大きくしたりする。米国では上層部が下層部の仕事を細かく決める。

・談合は、共存共栄のシステムであり利点もある。受注が見込めれば企業は効率的に先行投資ができる。完全な競争にすれば値下げ合戦となり、最後は強者の寡占で終わる。

・本音とタテマエは悪い事ではない。杓子定規を好まない、臨機応変の知恵である。海外にもフロントステージ/バックステージがある。本音だけで成り立つ社会はない。
人間行動は、深層心理が知性による理論付けや、教養による肉付けなど様々な衣装を着て表層化したものである。本音を、どのようなタテマエ(表層)に表現するかは文化の違いである。


●人間関係

・義理人情の感覚は若い世代でも意外に薄れていない。景気が悪いと人情も薄くなるが、経済が盛り返すと人情も戻る。

・人間関係を重視する長所は、ストレスの少ない住みよい社会。他国に見られぬ、やわらかで優美な社会を形づくっている。
短所は、「断りきれず」「世話になっているから」で公私の境を超えてしまうこと。汚職などにつながる。
これを防ぐには、恥や誇り・けじめの感覚をしっかり持つ必要がある。外交などで、必要以上に人間関係を重んじては国益に反する。

・戦後、田畑や家屋敷といった財産がなくなった。(日本には中流は多いが中産階級が少ない)「継がせる」必要がなくなるとともに、日本人の「家」意識も薄れている。

●新人類?

・明治以来の西洋礼賛が終わり、日本が世界のトップに立って以降に生まれた世代は「古いもの=ダメ。新しいもの=素晴らしい」とは思っていない。これは復古や保守化ではなく、「古い/新しい」という対立軸で考えなくなったため。日本の伝統的文化にも自然に接する。

・フランス人などは、健康に満足していても家庭には不満だったりするが、日本人はひとつの事に満足なら他も全てヨシとしてしまう。心が分化していない。一次集団(家庭)の論理を二次集団(会社など)に敷衍してしまう。この日本型家族的社会の仕組みを外国に持っていくと通用しないので注意が肝要。

・日本人は宗教心が薄いのではなく、自然体で宗教に接している。特定の宗教に傾倒しなくても、宗教的な心は大切だと考える人間の割合は圧倒的に高い。

・日本人の表面的な思考の底流には、情緒的感情が流れており、伝統的な人間関係重視や、素朴な宗教心に親和している。この傾向は、50年間変わっていない。フレキシビリティや、特定イデオロギーに染まらない現実適応力、バランス感覚、勉強好きも変わっていない。

・・・

「21世紀を輝かしいものにするためには国際相互理解が必須である。諸外国への配慮ばかりや、アメリカさまさまの態度ではいけない。」
「日本語は中間的で曖昧な言語であるが、フレキシブルで平衡感覚に優れた日本人の特徴でもある。幼児からの英語教育は日本人らしさを失わせ文化を毀損する。」

など、現在ますます重要な論点に、きわめてまっとうなご意見を述べられており、頭が下がります。

2002年8月に出版された本ですが、林さんの没年が同8月6日ですから、亡くなる直前まで執筆されていたという事でしょうか・・

素晴らしい内容でした。

読むべし!



posted by 武道JAPAN at 21:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書記録(社会歴史) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月09日

「かなしみ」の哲学―日本精神史の源をさぐる 竹内 整一

著者の竹内整一さんは、東京大学文学部倫理学科卒の倫理学者。

日本人は、万葉の昔から「かなしみ」にとりわけ親和し、数々の歌や文学を残しました。子供に聞かせる童謡や、士気を鼓舞するはずの軍歌にさえ、哀調を帯びたものがたくさんあります。

本書は、本来は否定的な感情であるはずの「かなしみ」に向かう日本人の心のあり方は、どのような世界観に基づいているのか?・・という観点から、日本人の心性を解き明かそうという試みです。以下メモ。

・・・

●「かなしみ」は、「・・しかねる」のカネと同根の言葉で、「ちからが及ばずどうしようもない切なさ」を表すが、かつては「愛しい」「見事だ」など心が動くさま(感動)を表す多様な意味を持っていた。
時代が経ると共に、感動のうちでもひときわ強く、深く心を動かす「悲しさ」に意味が収斂されたものらしい。


●「かなしみ」こそが人生をより豊かにする

日本人は、「かなしみ」を通して、自分が永遠の宇宙の一部であると考え、世界の美しさ・神仏などの超越的存在につながる。その行きかたは次の通り。

人間は、有限な存在であり、どうにも「しかねる」運命を持った「悲の器」である。それを追求してゆくとやがて、人は皆いずれ等しく有限の命をまっとうし無限の天に還る身ではないか・・と「天地悠々の哀感」に至る。

天地悠々の哀感とは、「我」を超えた、すべての命を貫いて流れている大きな流れ(超越的存在)に至る気持ち・・人は大いなる流れの一滴であり、無窮の時間の中で一隅を照らす存在であると考える。ここに至り、ある種の安定や救いを見出す。

どうも日本人は、人間を含めた大自然の生命の流れや秩序を感じ取るセンスがあり、国家の興亡も人の生死も、すべてその大潮流の中にある、と感じているらしい。
そういった「大いなる”いのち”のリズム」に「ふっ」と身をまかせきってしまう事で安心する・・というコツを、どこかの時点で体得したようだ。


●「さようなら」とは

日本語の「さらば」「左様なら」「さようであるならば」は、先行する事柄を受け・それを確認し・次に行く接続詞である。

そこには、自己の身に起こったことの確認とともに、自分にはどうしようもできない運命を「そうあらねばならないのなら」と受けとめる態度が見える。

ここにも、大きな命のリズムに粛々と乗っていくセンスが働いている。


●本居宣長の「安心なき安心」

儒教や仏教の教理を「さかしらごと」(利口ぶった知恵・無益な空論)と切り捨てている。
悲しい事を悲しみ、喜ばしい事を喜び、あるがままの世界を受け入れて、その中で可能なかぎりの努力をして生きる事が、神の定めた「妙」なる働きにしたがう道であるとする。惟神(かんながら)の道。


●感性も、学ぶ必要がある

他者の不幸に共鳴して泣くとき、自他を区別する境界が取り払われ、共に大いなる無限の一部であると感じ入る。そのとき、宇宙の一部である「本来の自分」に還る喜びが垣間見える。
これは、ややもすると表層的なセンチメンタリズムにおちいる危険をふくむが、現代において急速に枯渇しつつある日本人の「感情」を養う術としては有効である。

すぐれた感性や「感じ方」は、自然に身につくとは限らず、唄や詩から「型」として学ぶ必要がある。かつての日本人は、現代人とは桁の違う質量の「感情」を持っていたが、年々枯渇している。

・・・

武道を通じて「自然体は自然には習得できない」と理解した私には、「感性も学ぶ必要がある」というのは、良く判る論です。

また、たしかに日本人には、ある時点までくると生への執着さえ”ふっ”と手放すスイッチがあるように思います。武士道や特攻など、個人の生命よりも、より大きな存在や目的の中に命を投じてしまえるのは、有限な”我”の奥深くに、大いなるいのちの流れを観ずるセンスがある故かもしれません。

古今の豊富な事例を引きながら、日本人の独特な宇宙観にせまった労作と思います。

読むべし!



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